森で遊ぼう

愛知県立芸術大学内の野外の自然空間を利用して地域住民と学生が交流、コミュニケーションをおこなう野外イベントを開催した。森の中を歩きながら自然観察、自然体験をするなど、愛知県立芸術大学内の自然環境を地域住民に開放し、自然に触れながら交流する機会を提供した。

2006年5月28日
愛知県立芸術大学
企画・運営:石井晴雄
撮影:石井晴雄、内藤祐子
案内人:青柳博樹(ART & LIFE自然学校)


朝目が覚めると、あいにくの雨。でも、十時に待ち合わせの場所につく頃には止んでくれた。天気予報では昼には太陽がのぞくとか!うれしい。 のんびり集まる人たち。体の奥底からじわじわとワクワクする気持ちがわき上がってくる。子供の頃遠足に行く前の日、私はいつだってこんな風に体中の細胞がざわざわして眠れなかった。テレビモニターを覗き込むように昔の私が覗けるのなら、きっと今日の私の顔は、あの頃と同じ表情をしているに違いない。きっと素敵な一日になるよね。
森の中にいると、いつだって私は子どもの頃に戻る。感傷的なノスタルジーではなくて、細胞が覚えている感覚が私を連れ戻すのだ。今という瞬間は過去も未来も同時に存在させているという話を、一気に真実味のあるものにする瞬間だ。息をゆっくりと吐き出しながら目を細めると、子どもの頃に観た景色と、今、目の前に広がる景色が、まるで重ねられた透明のフィルターのように同じ視界に映し出されて見えてくる。足下をくすぐる草の感触や、雨に濡れた土の匂い、頬をさわる風、普段はすっかり忘れ去っている幼い頃の記憶を森は一瞬にして呼び覚ましてくれる。二人の娘と歩いていても、ここで私は母ではない。友達になれる。が、残念ながら、気持ちだけのようだ…。森の中にある幼稚園で育った彼女たちは現役の森っ子。私をおいてどんどんと先を歩いて行く。冷たいな?。
今日ここに集まった人たちは年齢も職業も様々。お母さんに抱っこされている赤ちゃんから小学生、芸術大学の学生さんや先生、お父さんお母さん、そして誰よりも元気な73歳まで、実に様々な仲間たち。誰かが号令をかけるわけでもなく、本日の森探検隊はのんびりゆっくりとそれぞれの歩調で森の奥へとむかう。歌をうたいながら、空をながめながら、おしゃべりしながら、ゆっくりと進んで行く。

大学構内の森。普段ほとんど人の入ることのないような森。道はまるでけもの道のような細道。人一人が歩くのがせいぜいの道を歩いて行く。先頭を行く人が鎌で草を払い、足下をさぐりながら歩いて行く。腰の高さまで伸びた草が行く手を遮って、それをまるでかき分けながら進む様は、都会暮らしの私たちには笑ってしまうぐらいにサバイバル!。気分は映画で観るジャングル探検隊の様。頭の上から突然蜘蛛がおりてきたり、名前も知らない虫たちが突然の侵入者に驚いて逃げ出していく。7歳の娘に言わせると「おちょおちょ」と逃げていく!だそうだ。
突然、先を歩いている集団から叫び声が聞こえてくる。なにごと?と思い、進んでいくと、そこには10センチはあるような真っ黒な大きな毛虫があちこちにぶらさがっていた。ぶら下がるというより、毛虫の養殖所のようにわんさかいる。あまりの多さに、笑いがこみあげて吹き出しそうになった。それでも、さされるのは嫌なので、首にタオルをまきつけ、帽子をかぶり直した。
整備された森林公園とは違って、作られていない自然の中に放りこまれると、人の感覚は解き放たれてゆく。感覚が研ぎすまされて何かが体の中で切り替わってゆく。それは危険を察知しようとする防衛本能かもしれない。安全で快適な生活を目指して発達してきた文明は、人間からいろんな能力を奪っていることに気がつく。遠くで鳴く鳥の声がとてもはっきりと聞こえ、同時に足下で鳴く虫の声までも聞き取れる。体で感じる五感と意識という六感は、無限に広がっていると、ここでなら信じられる。都会に生活している私たちは、大地とともに生きてきたということを、地球に住んでいるということを忘れすぎてはいないだろうか。地球はこんなにも私たちとつながっている。

目的地にたどりついたところでお弁当の到着の時間になったので、ケイタリングをしてくれるわは☆ちゃんとの待ち合わせの場所に、ひぐっちゃんとひでとくんと私の3人で、来た道を引き返すことにした。皆と分かれて元来た道をさくさくと歩く。しんと静まり返っている森。さっきまで大勢の人と歩いた時とはまた違う顔を森は見せてくれる。日が照ってきた。さっきまでの薄暗い森に日が差し込んでくる。曼荼羅模様に足元にゆらめく木漏れ日。むわっとする空気が密度を持って地面から立ち上ってくる。日本がアジアの一部だということを感じさせる。 「いったいここはどこでいつなのか、わからなくなるな?」と誰が言うでもなくつぶやいた。本当にここはいったいどこなのだろう。そして時間の感覚さえも失ってタイムトラベラーになっていく。ただ、森を歩くというだけなのに、なんと豊かな時間なのだろう。

わは☆ちゃんが、風呂敷に包んだお昼ご飯を届けてくれた。遅れてきた子どもたちとも合流して再び森の奥へ。同じ道なのに、歩くたびに顔を変える森。うっそうとした木立のむこうから、皆の声が聞こえてくる。なんだか狩猟民族になって獲物を持って村に帰ってきたみたいだ。「みんな、お弁当が届いたよ??!」 。待っていた皆に笑顔が広がる。 こども達が「おなかすいた?!」と駆け寄ってくる。 きっと大昔、人はこんな生活を毎日くりひろげていたんだろうな?。
大きなシートの上で 風呂敷包みから次々と顔を出す色とりどりの料理!皆の目が釘付けになる。 ご飯の準備をしていると気がついた。マイ食器を持ってくるのを忘れてしまった…。慌てる私に娘は平気な顔をして「大丈夫!」と言って森へとむかった。適当な長さに枝を切ってもらい、ナイフを借りて手慣れた手つきで箸を作ってくれた。お皿は大きな葉っぱがある。かっこいい箸とお皿があっと言う間にできた。「はい、これ、お母さんの」。そう言って娘は私に少し曲がった枝の箸を手渡してくれた。普通の箸よりこの箸のほうが素敵!ありがとう。臨機応変は生きる力。普段の生活で叱ってばかりだけれど、彼女の中に育っている確かなものを見つけて自然と笑みがこぼれ、感謝の気持ちがわきあがる。 そして、自然の恵みはすばらしい。なくて困るものって、案外少ないんだな。
さ?いっただきま?す。みんなで食べるご飯はおいしい。 普段、小さい子供のいるおかあさんは、子供の世話しているだけで自分のご飯が食べられない。でも今日は学生のおにいさん、おねえさんが上の子供の世話を手伝ってくれる。大家族みたいだ。核家族では味わえない醍醐味。お母さんもこれでゆっくり皆と一緒にご飯を食べることができた。 世話をしてくれたおねーさんがつぶやく、「お母さんて、大変だな?」 。そう、子どもはじっとなんかしていない。早々にご飯を食べ終わると、もぞもぞ動きだす。森の中で育った子どもは好奇心の固まり。無気力、無感動、無関心なんてものはここでは存在しない、目に映るものすべてが全力で立ち向かうに十分な懐を持っていてくれるのだから。 遊ぼう!と、皆の手をひいて洞窟探検に出発!その間にお母さんたちはおかたづけ。小川の水でお茶碗をゆすぐ。キラキラとした川の水とおしゃべりをしながら、普段なら苦手な片付けもここでは苦にならないから不思議。 片付け終わって一息。すると冒険家たちが帰ってきた!目がキラキラしている。泣きべそで抱っこされている子もいる。大興奮で報告会。 「こんなコウモリがいた!」と手を広げる子供。いくらなんでもそんな大きいのはいないでしょ…(笑)。「洞窟の中に文字が書いてあった!」「暗くて怖かったけど、勇気だして進んだんだ!」口々に自分が勝ち取ってきた戦利品を自慢するかのようにしゃべり続ける。100パーセントの力を出し尽くす遊びは、子どもたちの何よりの栄養なんだなぁ。ひととおりの報告が終わると、休む間もおしんで今度は池へと進んで行く。元気だな?。

 

さあ、ここからが彼らの本領発揮となった…。誰も今まで足を踏み入れたことがないのではないかと思うような池。エメラルドグリーンの池は静かにひっそりとして、少しだけ、人をよせつけないような畏怖を感じる。だから、子どもたちも池には足をつけるぐらいかな、と思っていたが、彼らにはそんな畏敬の念などは通用しなかった…。好奇心の方が、強いらしい(笑)。私たちの想像を飛び越えて、池に飛び込んだのだった…。最初は、、恐る恐ると、足をつけていた子供たちも、大人たちの顔色をうかがいながら、最後には頭まで潜る子どもたち!どの子もみんな嬉しそう。見守る大人たちも、自然と笑顔になる。子どもっていいな?。今度は、一緒に入ろうかな…。

最後まで池からあがらなかったK君は池の中に肩までつかり、瞑想する修行僧のように目を閉じて動かなかった。慎重なR君は、皆が池に飛び込むのを見て、「これは行くしかないな」とにやりと笑って飛び込んでいった。ずんずん池の奥へと進むお兄ちゃんを見て、「おにいちゃんすごいな?」とつぶやく妹。言葉で教えられることじゃなく、彼らは全身で学んでいるのだろう。大切なことは体で覚えるんだ。頭だけで人は生きているんじゃないんだ。

充分に遊び尽くした子どもたちと、それを見て充分に心の疲れを癒した大人たちは、最後に森への感謝をと、手をつないで輪になった。ただ、この時間をすごさせて頂いたこと、ただ森の中に招き入れていただいたこと、ただそれだけに感謝の祈りをした。信仰とか宗教とか誰かをまつるとか、そんなことじゃない祈り。ただ、生かされていること、それだけの祈り。本来祈りとは、こういうものだったのではないだろうか。
7歳のK君がとなりでつぶやいた。 「なんだかなつかしいな?」って。 たった7年しか生きていない彼の中にも、そんな記憶が埋め込まれているのかもしれない。自然とともに生きているのが人間。そして生かされていることを感謝する気持ち。それはすべての人の中に記憶されている原風景なのかもしれない。 思い出していきたい。思い出す人が増えたなら、この世界はまた、自然と人との共存を大切にできるかもしれないな…。奪い合い争うことは、もうやめようよ。思い出そう。この森で、平和に暮らすということを、ただ生活するということを、生きているというだけで幸せだということを。またここで会おうよ。めぐりあいとは、循環の命が出会うことだ。今度は、あなたとめぐりあいたいね。 みんなありがと☆ (文、名川敬子)

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