ワークショップ「自然農」

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愛知県長久手市の愛知県立芸術大学の学内で、学生や社会人を対象に自然農のワークショップを企画し、一年をとおして継続的に開催した。この活動をとおして食物の安全や農と環境への配慮など、サスティナブルな生き方について体験的に研究をおこなった。

企画:石井晴雄
参加:野呂有里、浦 雅子、武田裕子、伊藤美穂


自然農とは耕さない、肥料もやらない、水もやらない、農薬も使わない、ほとんど何もしないで野菜や穀物を育てる農法のことです。何もかもがはじめてでしたが、様々な面で大収穫の一年でした。

畑づくり
環境問題や食料不足、食の安全の問題等いろいろな話を聞く機会があって、ふとその時ただ話を聞くだけではなく、実際に自分たちで畑をつくって野菜を育ててみようと思い立ちました。そして農業の学校に通ったり、いろいろな本を読んだり、畑になる土地を探していたころ、ちょうど開かれていた愛・地球博の地球市民村でパーマカルチャーガーデンという自然農の農園があるというので、見学に行って話を聞く機会がありました。その結果、耕さず肥料や水もやらず、農薬も使わない自然農という農法があることを知り、早速その農法で畑を始めることにしました。そしてセイタカアワダチソウとクズのツタが一面に生い茂った野原をみんなで草刈りをして畑を作り始めました。

 


種まき
そして今年の春から種まきを始めました。種をまく前に簡単にウネを起こして、その上に近くの林から運んだ腐葉土を積んでさらにその上から刈った草を積みました。ほとんど土は耕していません。それから様々な野菜や穀類の種を蒔いていきましたが、その土地は石ころだらけの黄色っぽい粘土質の土に、セイタカアワダチソウとクズがびっしりと根をはっていて、本当にこんなところで野菜が育つのだろうかといささか不安になりました。
おまけにセイタカアワダチソウの根にはアレロパシーといって、他の植物の発芽を抑える作用があるというので、三週間かけてすべてはぎ取りました。そうこうしているうちに種まきはすっかり遅くなってしまいました。
やっと種まきを終えたら今度は、本当に芽がでてくれるのかとても気がかりでした。種を蒔いて一、二週間すれば芽が出てきてもおかしくないはずですが、今まで野菜の芽も見た事がないので、どれが野菜の芽なのかそれとも雑草なのか、それさえ分からない始末でした。かろうじて等間隔に出ている芽をみつけて、これが野菜の芽なのだろうと推測するしかありません。芽が伸びてある程度成長すると、今度は周りの雑草の成長の勢いがすごくて苗を覆い隠してしまうので、周りの雑草を刈るのに忙しくなりました。
カボチャ、キュウリ、トマト、ナスなどは家のベランダでポットで苗をつくり、少し大きくなったところで畑に定植しました。しかしカボチャの苗などは定植したあとすぐに虫に葉を食べ尽くされて、ほとんど全滅してしまいました。またよその畑と比べても自分たちの畑の野菜の株は小さくて、成長が遅いような気がしてなりません。 モチキビは種を蒔いて二週間も三週間たっても発芽したのはほんの少しで、ほとんど発芽不良のような状態でした。そんなときはさすがに自然農では無理なのではないだろうか、除草剤も肥料をつかわない農法など絵空事なのではないだろうかと思ってしまいました。

そして収穫
六月いっぱいかかってやっとすべての種を蒔き終えた頃には梅雨に入り気温もだいぶ高くなって、やっと畑も一段落して一息つきました。そしてしばらくぶりに畑に行ってみると、オクラの花が咲いてる!これゴマじゃないか?これは枝豆じゃないか?トウモロコシも大きくなってる!タカキビもすごい!、などと驚ているうちに一雨ごとにぐんぐん成長して、あたり一面あっという間に野菜と雑草に覆い尽くされてしまいました。雨が降って気温も上がって人間がひと休みしている時こそ、野菜にとっては一番の成長期なのですね。
そうこうするうちにオクラは食べきれないほどできるし、エダマメはぷくぷくした豆をいっぱいつけ、黒トウモロコシやゴマやシソも大きくなり、トマト、キュウリ、ナスなどいろいろな実がなり始めました。タカキビはぐんぐん成長して瞬く間に人間の背丈を超えて実をはじけさせているし、発芽不良だと思っていたモチキビもいつの間にかびっしり生えてふさふさとした穂を揺らしています。地這いのキュウリもナスも程よい時間差でなり始めました。野菜の育て方の本には多肥を好むと書いてあるそれらの野菜も、一切肥料をやっていないのに、立派に実をならしています。
野菜の成長のスピードは一般の畑に比べて確かに遅い気がします。また一度につける実もさほど多くはありません。ただ野菜の株の寿命はとても長く、ゆっくり順番に実をつくるので、食べるにはとてもよいペースです。一度に大量の同じ種類の野菜ができて、せっかく収穫しても食べきれずに捨ててしまうということはありません。
超自然農ゾーンと呼んでいるまったくウネ立てもせず雑草も刈らずにおいたところでは巨大なナスがなっているし、同じく超自然農ゾーンで全滅したと思っていたカボチャがクズのツタに負けじと長大なツルをのばして近くの木にまでよじ昇っていました。そのたくましさには感嘆するしかありません。
よほど雑草が茂っていない限り自然農の畑では雑草はとりませんでしたが、雑草は野菜の成長を阻害するというよりも、むしろ野菜と共生しているのではないかと思えるほどです。あまり雑草を刈るとかえって野菜まで元気がなくなってしまうように見えます。

 


畑の野菜は自然の恵みそのもの
そんなところで採れた野菜たちはマズいはずがありません。肥料もやらず、水もやらずまったくお金もかけず、純粋に土と雨と太陽の自然の力だけでゆったり育った野菜たちは、自然が無条件で与えてくれた「自然の恵み」そのものです。ですからありがたさもまた格別です。でも考えてみれば、野の花や雑草たちはまったく自然の力だけで生きているわけだから、野菜にもできないはずはないのかもしれません。
もちろん自然農では雑草をとらないので、収穫もしづらいし、形も不揃いで商品作物としてやっていけるかと言われればそれは無理かもしれません。でも、自分たちでおいしく、安全で健康な野菜を食べたい、そして自分たちのペースで楽しく畑仕事がしたいと思って始めたことなのですから、多少形が不揃いでもまったく気になりません。もっともスーパーで売られている野菜の形が揃っているのは、選別されたからなのですが。
うれしかったことは野菜に病気がみあたらないことです。確かな理由はわかりませんが、野菜が病気になる理由のひとつは、栄養過多にあるのだそうです。肥料などをいっぱい施して短期間の間に無理に成長させることによって、さまざまな病気がおこるそうです。自然農の畑の肥料は以前そこに生えていた雑草などだけですから、けして養分に富んでいるとは言えないかもしれませんが、ゆっくり無理なく成長しているので、病気が出ないのかもしれません。
また耕したり肥料をやったりして人間が土地に手を加えれば加えるほど土の力がなくなり、野菜も元気がなくなり、病気も発生するということがあるそうです。耕さず肥料も水もやらず何もせずに自然に任せたほうが、自然自身の力で土地の力は保たれ、野菜の成長にもよいということがあるのかもしれません。
自然農をやると言うと、肥料もやらず農薬もかけずに野菜ができるわけがないとよく言われます。自分も正直言って本当にできるのか不安もありましたが、実際やってみると立派に野菜ができいるのを見て、逆に肥料を入れたり農薬をつかったりする普通の農法というのはいったい何なのだろうかと考えてしまいます。
あるとき近所のおじいさんと立ち話をしたことがあるのですが、その人の弟さんは地元で兼業農家をしているそうですが、様々な農工具や農薬、肥料を農協から購入するために作物を売って得た収入の8割は消えてしまうそうです。 さまざまなものを買っても結局農協や様々なメーカーが潤うだけなのでしょうか?農業なんてあんな大変なことやりたくないという声もよく聞きますが、畑を耕して肥料をやって草は刈って水をやって農薬をかけるなど、いろいろやらなければいけないことがたくさんあるので、その結果農業は難しくて骨の折れる物だという先入観ができてしまったのかもしれません。


自然農には自由がある
人間が下手に手をくだすよりも自然のままにしておいたほうが、自然は自分自身の力によってすべてうまくやってくれる。人間ができることはただ、余計なことをしないで自然に任せることだけなのかもしれません。
自然農の畑の野菜たちが何もしなくても元気に育っているのを見ていると、われわれ人間自身もそうありたいと思えてきます。現代の社会のあらゆる物やサービス、教育、医療など、こうしなくてはいけない、これがなくていけないと思われているものは、本当はあまりなくてもよいのかもしれないとさえ思えてきます。いやもしかしたらない方が、人は元気に、豊かに生きてゆけるのかもしれません。
私たちは食べ物がなければ生きてゆけません。しかし私たちは自分で食べ物をつくるということはとても大変なことだと思っていて、自分たちが生きてゆく上で必要不可欠な食べ物を自分たちでつくることをせず、スーパーなどのお店で買ってきてすませています。そしてそのためにお金を稼がなければなりません。生きてゆく上でもっとも基本となることを貨幣経済のシステムに依存しているのです。そうしているかぎりいつまでたっても貨幣経済の呪縛から逃れることはできません。しかし自然農によってとても楽に楽しく食べ物ができるとしたら、貨幣経済による有形無形の呪縛から解放され、すこし自由になれる可能性を感じます。
自然農は、我々は本来太陽エネルギーという無限の安定したエネルギーと、地球上の水と土、植物という自然の循環の恵みによってのみに生きていることを改めて気づかせてくれます。多くの肥料や農薬、機械の力によって効率よく成長させられ、大きく、きれいに、均一だが、ひ弱で病害虫に冒されやすく薬づけにされた現代の野菜の姿は、どこか今の我々人間自身の姿とも重なってくるような気がします。
もし、農薬も肥料も水もやらず、草も刈らずなにも世話をしないで、お金もかけないで野菜が育つとしたら。しかもその野菜はとても健康で美味しかったら、そのつぎは我々自身がその野菜のようになる番なのではないでしょうか。私たち自身がなにより楽しく、健康であること、そんな生活を目指すために、自然農は多くの示唆を与えてくれている気がします。(文、写真:石井晴雄)

自然農とは:何も足さない 何も持ち出さない

普段あまりなじみのない自然農についてその概要をまとめてみた。

自然農とは
自然農とはいったいどのような農法だろう。自然農とは、福岡正信氏や川口由一氏が提唱し実践している、雑草も取らず土も耕さず、無肥料、無農薬でおこなう農法のことだ。近代的な農業では不可能と思われてきたそれらのことを、自然の力のみで行う農法だ。しかしその方法は決して新しいものではなく、日本古来よりおこなわれていた伝統的な農法がベースになっており、近年、耕作機械や化学肥料、農薬の普及によって、その知恵は急激に失われてしまった。自然農とは機械化、近代化によって失われてしまった耕作の知恵の復活であるとも言えるだろう。
今年一年自然農に取り組んだ結果と様々な先人の経験を元に、自然農の概要をまとめてみた。

近代的な農法とは
ではまず現在一般的に行われている近代的な農法とは、どのようなものなのだろうか。まず作物の作付けの前には前作の葉や茎、根などの残さはきれいに取り除かれ畑の外に持ち出される。そして大量の堆肥や肥料が畑に持ち込まれ、トラクターなどで畑全体にすき込まれてゆく。その時雑草なども土中にすき込まれてゆくので、トラクターが通ったあとの畑は草一本生えておらず、土の表面が露出した状態になっている。露出した土はその後、ビニールなどのマルチでカバーされ、雑草の繁茂と土の乾燥が防止される。
その後マルチの穴から化学肥料などが施された後、野菜の種がまかれたり、苗が植えられる。マルチがしかれた畑には雑草は生えることはないが、雨水は土には行き届かないので、株元に開いたマルチの穴から水をやることになる。マルチがしかれていない畑では、雑草が生えるときれいに抜かれるか除草剤がまかれ、いつも土の表面が露出した状態におかれる。成長して病害虫が発生したら、農薬を散布したり病気や虫食いの葉や苗そのものは取り除かれる。また害虫は手でつまんで取り除かれる。作物が収穫し終わった後は、前回と同様に残った茎や葉や根は畑の外に持ち出され、処分されたり燃やされたりして、その後前回と同様に堆肥や化学肥料を施される。
この一連の作業は毎年欠かさずおこなわれ、多くの肥料、農薬、農機具、ガソリン、種などを購入する必要があり、多くの労力が必要となる。

自然農について
一方自然農とはどのような方法だろうか。自然農とは前述した近代農法で行われている様々なことを一切行わない。つまり耕さず、肥料も水もやらず、雑草もほとんど取らず、何も持ち込まず、何も持ち出さない農法である。

雑草は友達
種まきの前後に前作の作物の葉や茎、雑草は株元で刈り取ってウネやウネ間に置き、天然のマルチとする。それは土壌の乾燥防止を助けるとともに、雨水による養分の流出を抑え、地温の上昇と下降を抑え、やがて分解されて堆肥となり、作物に還元される。
根はそのまま地中に残しておけばやがて堆肥化し、また根が分解された後にできた空気の穴が通気をよくし、土を柔らかくする。雑草があまり大きくなって野菜の株が日陰になったり、成長の邪魔になるようであれば根元から切って取り除くが、基本的に雑草は取り除かなくてよい。雑草が生えていても防風の役割を果たしたり地温の上昇を防止し、土中の水分の蒸発を防いでくれるなど、雑草は作物とお互いに競い合い支え合う共生関係にあり、周りの草を取り除くとかえって野菜に元気がなくなってしまうように見えることもある。
雑草を刈ると、養分や水分の足りない分を人為的に補わなければならず、結果として多大な労力とお金を使うことになる。雑草は土壌を豊かにして、作物の生育に適した環境づくりに大いに貢献してくれているのだ。

耕さない
一般的におこなわれている農法と違い、作物の種まきや定植の前には土は耕さない。耕すことによって土の団粒構造や通気性、土中の微生物のコロニーを破壊しないためだ。自然農の畑では、耕さなくても土は自然の力によっていつも柔らかいふかふかの状態にある。また雑草などもそのままにしておくので、土は自然の状態でいつでも適度な湿り気を帯びた状態になる。
雑草も取り除かず、前作の根なども取り除かないので、根が畑を耕す役割をしてくれる。またミミズなどの生物も土中に生息しやすくなり、さらに土壌を豊かにしてくれる。

肥料はいらない
前作の残さや雑草を刈ってウネやウネ間、作物の株元に寄せておけばそれらはやがて肥料になるので肥料をやる必要はない。多くの植物の養分を吸収する根は、土の表面近くに横に広がる性質があるので、残さは土中に鋤き込むのではなく土の表面近くの株の周りに置いておくだけでよいという。地中に深く伸びる根は水分を吸収する役割があり、深く肥料を入れるとその根に養分があたって肥料過多になり病気の原因になるそうだ。
しかし開墾したてのあまり肥えていない土地では、近くの林の落ち葉や腐葉土などを堆肥として利用した。ある程度土が肥えていれば、前作の根や葉、茎、雑草などを畑に残しておくだけでやがて堆肥化し、肥料を入れる必要はなくなる。
化成肥料を使うと作物の生長には目に見えて効果があるようだが、堆肥のように土壌を改良する効果がないので土の活力は失われ、やがて土が固くなり、人為的にトラクターなどで土を耕す必要がでてくる。

水はやらない
水はやらなくても雨水で十分だった。雑草を株の周りに生やしておいたり、刈った雑草や残さをウネや株の周りに置いておけば、直射日光による土中の水分の蒸発を防いでくれているようで、土の中は常に適度な湿り気のある状態に保たれている。人間がジョウロで水をあげても作物はあまり成長しないが、雨が降ると作物はグッと成長すると言う。雨水には植物を成長させる不思議な力があるようだ。

虫は害虫ではない
野の草花が病気になっているところを見た事がない。作物が病気になるということは、なにか不自然で不健康な状態にあるということなのだろう。病気の原因は様々だろうが、肥料をやりすぎて栄養過多になっていたり、耕すことによって土壌のよい環境が破壊されてしまうことが原因のようだ。また雑草と一緒に作物を育てると、例え虫がいても周りの草に分散して、作物だけに集中することがないので作物への被害は少ないという。
あるトマトなどは大きな実がなっていたが、雨にあたったことによって膨張してはじけてしまった。しかしミニトマトなどは放任で育てていても病気もほとんどない。ミニトマトのほうが原種に近いそうだが、あまり品種改良して大きく実らせるようにした品種などは、雨にあたらないようにハウス栽培するなど、それなりに栽培にも手がかかるようだ。商品作物を作るのであればいざ知らず、もともと日本の気候になじまない野菜を手間をかけて育てて、結果として病気や害虫の対処や世話に忙しくなってしまうのであれば、いっそのことそのような野菜は作らない、食べないという選択もあってもよいかもしれない。
あるときゴマの葉が全部虫に食べられてしまったことがあった。しかしその時にはゴマは既に種をいっぱいつけており、すでに葉は役割を終えていたようだ。虫は病気になったり弱った葉を食べてくれているという説もある。自然界には実にデリケートなバランスが存在しているようだ。

採種
現在一般に売られている野菜の種はF1種(一代交配)といって、均一で大きな実がなり多収がみこめるよう人口的に交配してつくられた種なのだが、種ができてもそこから親の世代の性質を受け継ぐことはない。だから毎年種を買わなければならない。世界中の作物の大半はそのようなF1種によってできており、アメリカのモンサント社のような巨大な種苗メーカーが独占的に生産、販売している戦略的な商品なのだ。
一方現在はその数は少ないが在来種といってそれぞれの地方で代々受け継がれている種や、固定種といって遺伝的に安定して種が取れる種もある。それらの種は栽培した野菜から採種された種によって栽培が可能なものだが、特定の地域や種苗店や種苗交換会などで交換、取引されていて、一般に出回ることは少ない。
在来種や固定種は、その地域で長年栽培されているため、栽培される地域の気候、風土にあっていないと栽培が難しく、均一に生育しないと言われるが、独特の風味と味わいがあり、全国どこでも均一化してしまった現在の野菜に対して、野菜本来の多様性と地域性を感じさせてくれる。

まとめ
虫が喰っていなくて大きくて形がよく均質な野菜をつくるというのは、野菜の商品価値を高め、流通しやすいようにするという発想からきていることなので、自分たちで野菜を作って食べるのであれば、例え小さくも形が不揃いでも構わない。それよりも健康で美味しい野菜を食べたいと思う。それによって例え形が不揃いでも成長がゆっくりでも、それがその野菜本来の姿であればそちらのほうがよいと思うし、野菜づくりのマニュアルにしたがった結果、手入れが面倒になってしまって畑仕事が苦痛になってしまうより、自然放任で、それでいて健康で元気な野菜ができるのであれば、そのほうが畑仕事も楽しく、長続きするだろう。自然農についてはまだまだこれからだが、地道に経験を積み重ねてゆきたい。(文、石井晴雄)

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