スタードームをつくる

地域の住民や学生と、バックミンスター・フラーのジオデシックドーム「スタードーム」を制作した。竹やぶで竹を切って竹割り機で5分割し長さ4メートル余りの竹の板に成型し、それをつなぎ合わせたものを竹の籠を編むようにしてドーム状にしてゆき、最後に布を縫い合わせたカバーをかけて20〜30人入れる「スタードーム」を制作した。完成後サンフランシスコ禅センターの夢中師の指導による「ローフード」のワークショップを行った。

2006年7月〜8月
愛知県立芸術大学

「スタードーム」は竹と布でできたバックミンスター・フラーのジオデシックドームだ。まず近くの竹やぶで竹を切って、それを竹割り機で5分割し、長さ4メートル余りの竹の板にする。それをつなぎ合わせたものを竹の籠を編むようにしてドーム状にしてゆく。最後に布を縫い合わせたカバーをかけてできあがり。それだけで2、30人は入れるくらいの大きなドームができた。

小さな感謝祭

それからお祭りの数日前に小さな感謝祭をおこなった。自然農の畑の野菜は、肥料も水もやらず農薬も一切使わず、純粋に自然の恵みだけでできた野菜だ。だからそれをいただくときは、自然にありがたいという気持ちがわいてくる。現代では巷に食べ物があふれているが、スーパーも冷蔵庫もなかった昔の人にとっては野菜や穀物を収穫するということは、自分たちの生存にかかわるとても大切なことだっただろう。だから収穫に対する感謝の気持ちもまたひとしおであったにちがいない。また一緒に働いてきた仲間たちと労をねぎらい合い収穫を喜び合うという気持ちは、心の底からあふれてきたものではなかっただろうか。 ほんの三ヶ月前にはただの荒れ地だったところが、今では我々が食べることができる食べ物を生み出してくれている。それはとても不思議なことで、まるで奇跡でも起こったかのようにさえ感じる。だから大地と太陽に感謝を捧げ、そして育った野菜を仲間たちとじっくり味わう特別な時間を持ちたいと思った。

祝祭の意味

以前、日進町(愛知県愛知郡)の御岳神社の祭礼を見に行ったことがあった。最初に祝詞や奉納舞や様々な雅楽の演奏を遠巻きに眺めていたが、神事も最後にさしかかったとき、来場者一人一人に榊が配られ、それを神前に捧げるように促された。列の最後についていって神前の前で礼拝をして榊を祭壇に捧げた。そして一連の祭礼は終わり、参拝者一同は解散した。しかしそのころから知らず知らずのうちに自分の意識が変容し、自分が何かと「つながって」しまっていることに気がついた。そしてしばらく祭壇の前で、心地良い空間に浸っていた。 最初は遠巻きに客観的に祭礼をながめていた自分がいたが、祭礼が進行し、やがて祭礼に参加するにいたって、知らず知らずのうちに自分はその祭礼の空間、時間の一部となり、その場と同化していったのだ。それは私に祭礼の意味を改めて感じさせてくれる体験だった。祝詞や奉納舞、雅楽、穀物の奉納、榊を捧げる行為といった一連の流れのなかで、人間の意識は知らず知らずのうちに変容する。それは神事や芸能の本来の意味をかいま見た体験でもあったように思う。 そして今度は自分たちでお祭りをしてみようと思うに至った。自分たちのスタイルで。御岳神社の祭礼では、神事の際に様々な穀物が捧げられていた。それならば自分たちのお祭りでは、自分たちの畑で採れた野菜や穀物を捧げよう。自分たちの畑の野菜は自然農で育った、肥料も農薬も一切使っていない野菜だ。純粋に太陽と大地と空からのめぐみのみによって育った野菜だ。自然農で育った野菜はその事をとても強く意識させてくれる。だからまずそれを自然にささげること、そしてそのお下がりをいただくことが、とても自然なことのように思えた。本来すべては自然が与えてくれて、やがて自然に帰ってゆく、われわれがそれらの野菜をいただくことは、その循環のプロセスをほんの少し迂回させているにすぎない。その永々と続けられてきた循環のプロセスをしっかり意識するために、特別な一日を持ちたいと思った。ちょうど季節はお盆のあたり。夏の野菜たちもあちらこちらで収穫期を迎えている。一緒に畑を作ってきた仲間や友達と自然の恵みを分け合い満喫するにはちょうどよい季節だ。

季節感と年中行事

畑をやってみて思うのは、お盆の時期の八月中旬はお祭りにはちょうどよい時期だということだ。作物は収穫を終え、仕事が一段落し、そして夏野菜から秋冬野菜へと作物が転換する。そのような時期にお祭りをすることはとて自然なことのように思えるし、お盆に限らず年中行事というものはとても自然の理にかなっているようだ。現代人にとってお盆は単なる毎年恒例の行事にすぎないかもしれないが、それでもいまだに帰省などをして、正月とならんで大きな行事の一つになってるところをみると、お盆は日本人の季節感や精神に深く根を下ろした特別な意味を持っているのではないだろうか。 お盆が終ると風のにおいも一挙に秋めいてくる。そういえば五月上旬の立夏の頃はまだ肌寒い日もあったが、それでも野の草が一斉に芽吹くのを目にした。それと前後して畑の野菜も一斉に種まきのシーズンを迎える。自然農ではハウス栽培などをしないので、季節が十分生育に適したころを見計らって種まきをする。畑を始めると野の草花や季節、年中行事、祭、暦の意味などについて肌で感じることができる。

夢中さんのローフード

お祭りの日にサンフランシスコ禅センターの夢中さんが来られたので、「ローフード」をつくってもらうことになった。ローフード(=raw food、生の食事)とは火を一切通さず生で野菜や穀物を調理して食べる方法だ。野菜にはもともと自分自身を分解する酵素が含まれているそうだが、煮たり焼いたりすることによってその酵素が壊れてしまう。だから野菜は火を通さないほうが酵素が働いて消化吸収がよいのだという。また野菜の種は生命力が強いという。だから捨てたりすることなく、皮も種もすべてまるごとミキサーにかけてソースなどにしてしまう。ローフードは究極の「一物全体」の調理法だ。 まず夢中さんと自然農の畑へ出て収穫。彼はエダマメやトウモロコシなどをいきなり手でもぎとって口に入れて味見を始める。食べてみると、青臭い香りの中に自然の甘みが感じられる。ひととおり収穫した野菜はその場にある塩やゴマ油などの簡単な調味料だけでインスピレーションで調理してゆく。まさに目からウロコの調理法だ。しかし自然農で育った野菜や穀物の本来の味をじっくり味わって食べるには、これは理想的な調理方法だ。そしてなにより調理が簡単なのがいい。料理というと、なにか決められたレシピ通りに作らなければならないという固定観念にしばられがちだが、そのような固定観念を忘れて、料理とはこんなに自由なものだったのだということに気づかせてくれる。そして食事とは本来野菜や穀物そのものの味や栄養素をいかに損ねず、ありのままをいただくかにその核心があるのだという事を改めて思い出させてくれる。 ローフードは少量ですごく満腹感がある。そして食べたあとはなぜか体が熱くなってくる。これもローフードのパワーのなせる技なのだろう。畑の収穫祭に夢中さんとアシスタントをつとめてくれたなっちゃんに、自然農に最適な料理をつくってもらえた巡り合わせに、あたらめて大感謝であった。

そしてお祭り

そしてスタードームの中でロウソクの光で皆で食事をしたり、外でたき火をして歌ったり踊ったり、時間も場所もすべてを忘れた夜をすごした。一切のお金を使わず、すべての食材を自分たちの畑でとれた野菜でまかない、そしてそれで食事をつくり、人が集まり、火を囲み、それだけで祭りができる。人が集まるのに他に何の理由もいらない。本来それはとても自然なことなのだ。 日常を忘れ、空白の時間の中で、もう一度人と大地、食べ物、自然とが直接つながることができる機会を自然、畑、野菜、穀物が与えてくれたのだ。本来すべては自然が与えてくれていたのだということを、もう一度思い出させてくれた。そして大地、植物、食べ物、人、祝祭、芸術は本来一体で、すべてがつながっていることを実感した一夜だった。

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