複雑化する社会とセルフビルド化する世界

(愛知県立芸術大学紀要 No.36 2007年3月31日刊 「複雑化する社会の問題と伝統、自然、情報テクノロジー」を加筆、修正)

現代社会はますます巨大化、複雑化し、
個人が全体に埋没し、無力化される一方、
双方向的な情報テクノロジーや新しい市民参加意識の台頭によって、
個人が主体的に活動できる環境も生まれつつある。

はじめに

現代社会は物質的な豊かさが極まる一方、安心、安全を脅かされる様々な問題と、潜在的な不安が増大している。また人類が物質的な豊かさと経済的な効果を追求した結果、地球規模で環境破壊が進み、現代社会は複雑化し混迷を深めているかにみえる。しかしこれらの諸問題の要因は、近代の科学技術の発展にともなう経済効率優先の価値観と、それにともなってあらゆる社会のシステムが巨大化し複雑化し細分化されていることにも一因があるのではないだろうか。
そこで近代化によって細分化され分断されてしまった衣食住、環境、教育、芸術、デザイン、コミュニティーなどの個々の事柄について、もう一度根源的かつ包括的にとらえ、本当の豊かさについて考えたい。またただ単に現代の科学技術文明を批判するだけではなく、最先端の情報テクノロジーを利用するなど、より自由で主体的な生き方についても考えたい。

複雑化する技術

科学技術が発達する以前の伝統的な社会においては、身の回りの道具や住居などは身近な自然素材で造られ、構造も簡単だったので自分たちで造ったり治したりすることができた。しかし現代では機械や技術は複雑化し、例えば車やバイクなどの身の周りの機械でも素人では治すことができず、誰かに修理を頼まなければならない。我々は自分で造ることも治すこともできない物たちに囲まれ、それらの物に大きく依存して生活している。そのような社会の中ではすべてがブラックボックス化され、自分でコントロールすることができず、専門家や他者に任せておくしかない。
これは技術的な問題だけではなく、政治や経済、教育などのあらゆることに言えることなのではないだろうだ。そしてあまりに複雑になってしまった社会や構造に対して個人は無力感を募らせ、やがて自分では何もしないで誰かに任せておけばよいという無責任と依存心がおこってくる。そしていつしか盲目的に体制に追従する精神構造ができあがってしまう。人の人生でさえまるで規格化された既製品のパーツを選択するように、よい学校に入って、よい会社に行って、結婚して家を建ててといった画一的な発想になってしまいかねない。大金を払って建てる自分の家でさえ既存の規格化された家に住むしかない。
ヴィクター・パパネックはそのような状況をこのように言っている。
「技術的発達と、労働の分業化、特殊化は建築業者の専門家への分化を意味する。二十世紀末の現在、主流派の建築の実務に六つの個別分野が存在する。建築家は(たいていは、投機か、銀行家/投資家の隠れ蓑にすぎない)オーナーから委託を受ける。建築家のデザインは建築業者によって実行される。彼は特別な仕事のための何人かの下請けを雇う。最終使用者は、すなわち、住宅に住み、工場で働き、監獄に入れられ、オフィスで働き、学校で授業を受ける人は、五つの他の要素である才能、思惑、欲望、専門知識、技能などの複雑な実体に直接かかわることはない。最終使用者の唯一の貢献は、土地の権利、市場の力、現存する構造体、彼または彼女についてなされた決定に消極的に適応しているように見える。(中略)建築の教育と訓練は、(経済利益がより多いので)巨大規模の建造物や大きな建築群の方向に偏っている。そのため、建築家は、ものすごい量の知的な荷物を仕事に持ち込むが、その大部分は人間的スケールの集団的、社会的あり様を無視するものばかりである。」(ヴィクター・パパネック「地球の為のデザイン」鹿島出版会)
こうして世の中には無駄に大きな高級車、無駄に部屋数の多い家など、無駄なものであふれてゆく。売る側は利ざやの大きなそれらの商品を売ろう躍起になり、買う方もそれらの商品を手に入れようと四苦八苦する。かくして「最終使用者」である我々にできることは、ただお金を稼いでそれらの物を買うだけで、自分自身の生活や人生の主導権をほとんど持っていないかに見える。そして社会のシステムや業界の論理と収益構造自体が一人歩きし、ヒューマンスケールを無視した肥大化した構造が我々を飲み込んでゆく。

統制がきかない技術

このように巨大化し、専門化、細分化された社会では専門的なことは専門家にまかせておくしかない。したがってもし専門家が倫理観や責任感を持ち、円滑なコミュニケーションと相互チェックが働いていれば問題はないが、ひとたびそれらが機能しなくなると不正やミスによって大事故や大惨事が引き起こされる。近年立て続けに起きたコンピュータの操作ミスによる株式の誤発注問題や、原子力発電所の事故、家電製品の修理ミスや電車の操作ミスによる事故、牛肉偽装問題、株式不正取引、クレジットの不正使用、インターネットによるプライバシーの流出、マンションの構造偽装問題などの一連の事件や事故は、現代のテクノロジーや社会のシステムがあまりに巨大化、複雑化したことによるチェック不能やミス、不正によって引き起こされたことばかりではないだろうか。
コリン・ノーマンは「技術文明論」の中でこう述べている。
「技術は統制がきかないものである、という考えにはいくつかの根拠がある。それは、例えば、非常に複雑な産業社会にあっては、ほとんどの人が、巨大な経済組織で比較的小さな役割しか演じられない、ということにも一因がある。技術の領域だけでなく、他の領域についても、政府や巨大企業の中央集権的な意思決定は、生活に影響を及ぼす政策づくりにおける大衆の役割をはく奪してきた。これとは別に、日常生活に直接影響を与える発電所から自動車に至るほとんどの技術は、極度に複雑なものであるというまぬがれえない事実がある。結局、多くの人々にとって、技術は自分達の理解を超える存在であり、同時に、人々は技術がほとんど統御できない存在でありながら、その技術によって生活が形づくられ方向づけられていることに気づくのである。(中略)過去数十年の技術革命は、かくして、多くの人々にとって「ファウストの取り引き」のように感じられた。つまり、経済的、物質的な繁栄は、更新不可能な資源への高まる依存、環境悪化、さらに日常生活のさまざまな局面での規範の喪失といった、高価な買い物とひきかえに得られることになる」。(コリン・ノーマン「技術文明論」学陽書房)
我々は便利さと引き換えに、我々の魂を売り渡してしまったのかもしれない。

専門家

そしてこの巨大で複雑な社会は、様々な専門家なくしては足り立たない。現代では専門分化、専門家、エキスパートという言葉は、多分に好意的にとらえられているかもしれないし、実際、現代の社会においては各分野の専門家がいないとほとんど成り立たないと言ってもよいだろう。しかしバックミンスター・フラーは「宇宙船地球号操縦マニュアル」の中でこのように述べている。
「海賊は王に言った。『最後に、やってきたすべての若者にこう言うのだ。それぞれ、自分の仕事だけに専念するように。さもないと、頭を叩き割るぞ。あらゆる者の仕事を心にとめるのは、ただひとり、わたしだけでよい』。これが学校のはじまりだ。(中略)専門分化のはじまりだ。(中略)聡明な人間を専門家(スペシャリスト)に育てることで、王は非常に強力な頭脳の力を手にしたし、それゆえ、彼と彼の王国は陸地に強大なちからを得ることになり、だからパトロンである海賊も、ほかの『大海賊』と続ける世界規模での競争で、気づかれず、有利な立場にたてることになった。しかし専門分化とは事実上、奴隷状態の少々おしゃれな変形にすぎない。そこでは『エキスパート』は社会的、文化的にみて好ましい、したがってかなり安全な、生涯続く地位にあるのだと幻想をもたされて、奴隷状態を受け入れることになる。王国全体に関わる視野についての教育を受けるのは、ただ、王の息子に限られていた」。(バックミンスター・フラー「宇宙船地球号操縦マニュアル」ちくま学芸文庫)
「支配者」は、それが王であれ政府であれ会社の経営者であれ、自分のみが全体的な視野と総合的思考をもち、核となる技術を保持し、その他の被支配者には「専門家」となることを奨励する。現代の社会では多くの専門性が要求されるが、「行き過ぎた専門性」は弊害を招く。

巨大化するシステム

技術の発達はシステムが巨大化することを可能にし、巨大化はさらなる効率化を促進する。そして現代の社会や生産、物流といったあらゆるシステムはあまりに巨大化してしまい、専門家といえどもその巨大なシステムのパーツにすぎず誰も全体を把握できないので、例え問題が発生しても専門家にさえその原因がわからなかったりする。そしてそのシステムが巨大になるにしたがって個人の責任感や仕事に対するモチベーションは希薄になり、一度問題が起こると責任の押し付け合いが始まる。マンションの耐震強度偽装問題などはまさにその典型的な例だろう。そしてやがて誰かがスケープゴートにされてとりあえず解決したことにするが、本質的な解決は先送りされる。そして法律などの制度は後追いで改正される。
また一旦問題が発生するとすぐ責任を追求されるので、できるだけ問題が発生しないように規制や監視が強化され、また誰もが問題を起こさないように自己規制を働かせ、社会全体が保守化してゆく。そして思考停止して盲目的に多数意見に追従する。我々はそんな無責任で付和雷同化した巨大なブラックホールのような社会に生きているのかもしれない。
しかし我々自身も様々な便利さと引き換えに多くのことを他者や社会に任せ、依存している。そして我々が依存すればするほどシステム自体が増殖して我々をのみこんでゆく。だからこういう社会を造ってしまったのは我々自身なのだとも言えるのだ。

過度な経済システムへの依存

我々は現在のこの経済と社会のシステムに依存せずには生きてゆけない。しかし、すこし依存しすぎていないだろうか。例えば日本では医者は患者に薬を出せば出すほど儲かる仕組みになっているという。だから医者は患者にどんどん薬を出す。我々も、深刻な病気であればいざ知らず、ちょっと風邪をひいただけですぐ医者にかかってしまう。日本では健康保険への加入が義務化されているので、国民は過度にその制度に依存するようになり、一方健康保険制度の方も近年の高齢化に伴う医療費の増大に慌てている。
そのような構図は医療だけではなくて、衣食住や教育といったあらゆることに言えるのではないだろうか。健康保険や年金や教育など、我々は多くのことを制度や企業に任せきりにしてしまっている。そしてその制度自体も大きな負担いに耐えられなくなりつつある。
ガンジーは医者についてこんなことを言っている。
「医者は薬などで一時的には病気の苦痛を取り除いてくれるが、その結果がかえって病気の真の原因-不摂生や油断-を戒めることを人は忘れる。良い薬、良い医者によって、肉体的苦痛を、簡単に一時的に治して貰って健康になったと思っていることの繰り返しで、人は何を失うのか。それは不摂生の助長と自分の肉体に対する精神の支配力である。人の心は弱くなり、自制心をなくし、真の意味で体を大切にすることを忘れてしまうのである」。
このガンジーの言葉はこう言い換えることもできるだろう。つまり社会に存在するあらゆる便利なものや社会のシステムに依存しずぎた結果「自分にかかわるあらゆることに対する精神の支配力をなくし、人の心は弱くなり、自制心をなくし、真の意味で自分を大切にすることを忘れてしまう」と。例えば車を買って便利になったはよいが、いつも車に乗っていると運動不足になって足腰が弱くなるり、そしてそのうち車がなければどこにも行けなくなる。そしてそのうち成人病などを患い病院通いの身となってしまう。高価な買い物をして多少便利にはなったが、その結果病気の体を手に入れることになる。
人は科学技術によって便利さを追求した結果、過度にその技術に依存するようになり、やがて自分自身をコントロールする力を失ってしまう。科学技術文明は一度依存すると容易には抜け出ることができない、マイナスのスパイラル構造を持っているのではないだろうか。

希薄になる働くことの楽しみ

昔は身の周りの物が壊れると自分や近所の修理屋ですぐ修理できたが、いまではそのようなことはまったくできないくらい全ての物が複雑になっている。また修理に出しても壊れた部分を部品ごと交換するか、あるいはそっくり買い換えることになる。だからこつこつと治しながら永く使うということができないので物に愛着が持てず、物を大切に使うということをしなくなる。また物を造ったり修理したりして働くことに喜びを感じることも少なくなる。すべての労働はお金を稼ぐためであり、自分は単に巨大なシステムの一部として働いているだけで、働くことに対する意欲や喜び、自尊心や責任感が得にくい社会になっている。
ミヒャエル・エンデの「モモ」の中で、灰色の男たちに支配されてしまった町で左官屋ニコラはこんなことを言っている。
「モモ、ごらんのとおり、おれはまたちょっと飲みすぎたよ。いまじゃこれもしょっちゅうなんだ。そうしないと、あそこでやっていることに、がまんしきれなくなるのさ。まっとうな左官屋の良心に反するような仕事をしているんだ。モルタルにやたらと砂を入れすぎるのさ。わかるかい?これだと四、五年はもつけれど、そのうち咳をしただけで、落ちるようになっちゃうんだ。インチキ工事さ、卑劣きわまるインチキ工事さ!ところがそれだってまだましなほうだ。いちばんひどいのは、おれたちがあそこでたてている家だ。あんなものは家じゃない。ありゃー死人用の穴ぐらだ!思っただけでも胸がむかむかするよ!だがな、そんなことおれになんの関係がある?おれは金をもらう、それでけっこうさ。そうさ、時代が変わったんだ。むかしはいまとちがって、おれはひとに見せられるほどのものを建てて、おれの仕事をほこりに思ったもんだ。だがいまじゃ…。そのうちにいつかたんまり金がたまったら、おれはじぶんの仕事におさらばして、なにか別のことをやるよ」。(ミヒャエル・エンデ「モモ」)
巨大なシステムの中で、個人はやる気と倫理観、責任感を喪失してゆく。マンションの耐震強度偽装問題の当事者のみならず、誰もが身につまされる話ではないだろうか?
民族学者の宮本常一は「忘れられた日本人」のなかで、日本の昔ながらの田植えの仕方の変化についてこのように語っている。
「そして話も十分にできないような田植の方法は喜ばれなかった。縄植ならば縄を引きかえるたびに腰をのばすのでつかれも少ない、その上、手を休める時間もあって、おしゃべりもできるのである。しかしその田植がここ二、三年次第に能率化せられはじめた。女たちが田植組のグループをつくって、田を請負で植えるようになったのである。一反千円でひきうける。こうすれば田の持ち主は御馳走をつくらなくていいし、また早乙女をやとい集める苦労もない。田植組に田植の大体の日を申し込んでおけば植えにきてくれる。これによって田植の御馳走をつくる事や人をたのむ苦労からそれぞれの家の主婦は解放せられたのだが、田を持つ者は一日でも二日でも植えに出ねばならない義務がある。それによって田植組は一定の労力を獲得しているのである。この制度は女たちの発明であった。と同時に能率をあげれば収入もふえるので、田植のおしゃべりも次第に少なくなりつつある。話してもそれが一つの流れをつくらないで断片的な話になる。同時にまたラジオやテレビの普及が徹底して来て、主婦たちはみんは標準語になれて来、これをつかう術も知ってきた。こうして、うちうつむいて田植をすることは今も昔もかわりないが、それでもずいぶん変ってきましたの、田植をしても皆モンペをはくようになったし、編笠が経木の帽子になったし、田植は女の仕事ときまっていたのに男も手伝うようになりましたいの。しかし田植がたのしみで待たれたような事はなくなりました」。(宮本常一「忘れられた日本人」岩波文庫)
女たちが田植えの際にモンペをはくようになったとあるのは、それ以前は女たちは田の神様が喜ぶと言って田植の際にも着物の下にはなにもつけなかったという。また田植えを男も手伝うようになる以前は、女だけでしかできないような話などをして盛り上がっていたといい、おおらかに仕事をしていたのだ。
本来働くこととは経済的な利益を得ることではなく、自分自身や家族、共同体の生活を維持するため行為であり、そこには楽しみや充実感、共同体に対する連帯感などのさまざまな感情が介在していたはずだ。しかしひとたびそこに効率性や経済原理が導入されると、確かに便利になって収入もあがったが、のどかな労働風景は一変し、働くことはいともたやすく時間を切り売りするだけの無味乾燥なものになってしまう。
現代は社会全体が経済効果の名のもとにもっとよい車を買いなさい、もっとよい服を買いなさい、もっとよい家を買いなさいと物を売りつけ、社会全体がまるで相互搾取状態になっている。現代社会は物やマスメディア、教育、政治、経済が長年にわたって造り出した付加価値という幻想であふれており、人々はもはやそれが幻想であるということすらわからなくなっている。人間にさえ学歴、職歴、年収という幻想と社会的記号をたくさんつけているその一方で、何をしたらよいのかわからないとか、自分の価値が認められない,なにもやる気がしないという人が増えているという。共同幻想に満ちた社会の中で人間の精神は疲弊してゆく。
今、仕事をしていても働く意欲をなくし、自分がしている仕事の意味が感じられないという人たちが増えているという。ある調査によると彼らの仕事のモチベーションの第1位は「やりがい」であり、お金や名誉がトップではないのだという。お金も必要だがそれだけではない。現代の様に物質的に豊かな時代においては、お金や物質的な価値以上に精神的な充足が働く事にも求められており、お金や名誉、社会的地位というものは付随的なものにすぎない。仕事にやりがいを求めるということは、何かを得る手段として働くのではなく、働くという行為やプロセスそのものを目的化し、意味と充実感を求めているということにほかならない。物質的に充足している現代の社会では、もはや物ではなく行為やプロセスが価値を持つのであり、自分の時間を切り売りしてお金の為に自分の人生を捧げることに意味を見いだせない。現在ニートといわれる定職につかない若者が社会問題になっていると言われるが、労働を単に時間を切り売りするだけの機械的なものにしてしまっている社会自体が、「ニート」という現象を生み出しているのかもしれない。

グローバリズムという新たな経済植民地化と伝統文化の喪失

複雑化、巨大化の最たるものが、現在の世界を覆うグローバリズム経済なのではないだろうか。1990年代初頭の共産主義諸国の崩壊以降唯一の超大国となったアメリカが主導する経済至上主義的なグローバリズムによって、世界は経済原理がすべてを支配する熾烈な競争社会になりつつある。
19世紀のイギリスのデザイナー、ウィリアム・モリスのファンタジー小説「ユートピアだより」の中で、22世紀の理想社会の住人は19世紀の社会についてこのように言っている。
「われわれが聞いたり読んだりしたところから察するに、どう見ても、文明の最後の時代に人は物品の生産という問題の悪循環におちいってしまったようですね。かれらはみごとなまでに楽々と生産できるようになりました。その便利さを最大限に生かすために、しだいしだいに、この上なく込み入った売買のシステムをつくりだしました(というか、そういうものを発達させました)。〈世界市場〉と呼ばれるものです。その〈世界市場〉はいったん動き出すと、物品の必要あるなしにかかわらず、ますます大量に生産しつづけるように強制しました。その結果、ほんとうに必要な品々をつくる苦労から解放されることは(当然ながら)できませんでしたが、にせの必需品、あるいは人為的な必需品を際限なく生み出すことになりました。そうしたものは、いま言った〈世界市場〉の鉄則のもとで、人々にとっては、生活を支える本当の必需品とおなじくらい重要なものになってしまったのです。おかげで人々は、ひたすらその悲惨な制度を維持するだけのために、とてつもなく多くの仕事を背負いこむはめになったのです」
「なるほど…で、それから?」とわたしは言った。
「で、それから、このような無用な代物を生産するというひどい重荷を負わされ、よろよろと歩いていかねばならなくなったので、人々は労働とその成果をある一つの観点からしか見ることができなくなってしまった…すなわち、いかなる品物であっても、なるべく手間をかけずにできるだけ多くの品物をつくりだそうと常につとめることです。『生産費の削減』などと呼ばれたものですが、そのためにすべてが犠牲にされました。働く者が仕事をするときに得られる幸福はもとより、まず欠かせない心のやすらぎ、最低限の健康、衣食住、余暇、娯楽、教育までもが、要するにくらしそのものが、物品の『生産費の削減』というおそるべき必要性とはかりにかけたら、一粒の砂ほどにも値しないとされたのです。それどころか、こんな話も聞いています。この世界の多くの人にはとても信じがたいことですが、動かしがたい証拠があるので、信じざるをえません。すなわち、富裕な有力者たち、いま申した悲惨な人々の主人でさえ、かれらの富がこの極め付きの愚かさを助長するために、人の本性からすればぞっとして逃げ出してしまうはずのすさまじいながめや騒音や臭気のただなかでやむなく生活したのだそうです。要するに、〈世界市場〉が強いる『生産費の削減』という貪欲な怪物の口のなかに、社会全体が投げこまれたのでした。
中略
〈世界市場〉は食えば食うほどその貪欲さをつのらせていったのです。いわゆる『文明』(すなわち組織化された窮乏)の圏内にいる国々はこの市場が乱造するまがい物を腹につめこみ、圏外の国々を『開発』するために武力と欺瞞が容赦なく使われたのでした。
中略
要するに、犬を打てる棒が見つかれば、なんでもよかったのです。それからだれか、むこうみずで、節操がなく、無知な冒険家を見つけだし(その競争の時代には楽にみつかりました)、その男に賄賂をやり、その不運な国の伝統的な社会を根こそぎにし、またそこに見られるすべての余暇や楽しみをことごとく破壊し、『市場を生みだす』ようにしむけたのです。その土地の住民にほしくもない商品を押しつけ、『交換』という名の強奪の一形式によってその天然資源をわがものにし、そうすることで『新しい需要を造出』したのでした。その需要を満たすために(すなわち、地域住民が新しい主人によって生きることをゆるしてもらうために)、その不運で無力な人々は、『文明』のくだらぬ品々を買う金をかせぐために、希望のない苦役にわが身を売るはめとなったのです。ああ。」
「ユートピアだより」が書かれた19世紀末のイギリスは、植民地からの安価な原材料と労働力をベースにいち早く産業革命を迎えたが、一方、劣悪な労働条件と大気汚染や森林破壊などの深刻な環境問題を抱えていた。それは100年後の現在の世界が直面している問題となんら変わることがない状況だ。
イギリスをはじめとする欧米列強の植民地であったアジア、アフリカの諸国は、その後植民地支配を脱し独立を勝ち取ったが、引き続き安価な原材料や軽工業製品の生産者として、また安価な労働力の供給者として、そして大きな「市場」として開拓され、グローバリズム経済に取り込まれていった。そして伝統的な自足的かつ持続的な暮らしを送っていた彼らの生活に商品経済の荒波が押し寄せ、便利な「必需品」に埋もれながら経済至上主義的な価値観とマスプロダクト的な単一文化に席巻され、多様だった固有の伝統文化は失われていった。また生きる知恵と民族の歴史は顧みられず、民族の尊厳は失われ、共同体は崩壊し、犯罪が多発する社会となってゆく。また地域の自然環境への配慮は失われ、豊かだった自然は安価な資源として切り売りされ破壊されていった。政治的、軍事的支配は終わっても、経済的植民地支配は依然として続いているのだ。

お金とは

ところで現在我々が大きな価値を置いているお金とは一体何だろう。お金とは自分の代わりに知識、技術、エネルギーを投資してくれた他者の労働への対価として支払われたり、物やエネルギーの経済的な価値を計る抽象的な概念だ。たとえば家を作る場合,自分で作ればお金はかからないが、建築家や大工に依頼することによって、自分の肉体的、知的な労働のエネルギーを肩代わりしてもらい、その対価としてお金を支払う。そして家という物を結果として得る。つまりお金で何かを買うという行為は自分が労働に参加するプロセスを省略して結果としての物のみを得るということであり、基本的に何かを他者に任せているという事だ。そしてプロセスに関わっていれば不可避であるはずの他者や社会との関わりを回避し、やがてお金さえ払えば良いとして自分では何もしないで結果だけを求める結果主義、拝金主義、成果至上主義的な価値観へと帰結することになる。
そしてこの巨大な資本主義のシステムにおいては、すべての物事はお金を介してやりとりされる。お金を介してすべての物事がやり取りされる社会においては、すべての関係は間接的で人や自然環境とのダイレクトな関係は希薄になり、その物がどのように作られどのようにな経路で運ばれたのか、また食べ物が誰によってどのように作られるかについてまったく把握できず、人間は他者や自然環境から隔離され、共同体から疎遠になり、その結果まわりの環境や他者に対する配慮が希薄になり、やがて我々の生命と生存の根源である自然環境を無自覚に破壊することになる。
そしてお金がなければなにもできないような世の中ではすべてはまずお金ありきで、教育も食べ物も、楽しみもすべてまずお金がなければできないと思い、まずお金を稼ぐことばかりに一生懸命になってほかのすべてのことは後まわしになる。そして本当の教育、食べ物、楽しみが何なのか忘れてしまう。それらを自分でしよう、作ろうとも思わないで、すべてはお金を払えば得らえられるものだと思えてしまう。そしてやがてすべてを他人任せにしてしまう。
また物理的な質量を持たない抽象概念でもあるお金は、あらゆる人や物を数値的に序列化、階層化し、数の論理がすべてを支配する世界を創造して盲目的な競争を煽ってゆく。そして現在の情報テクノロジーの世界では富はいともたやすく所有者や物理的な距離を移転し、富の集中化をもたらし、やがて我々の生活実感とかけ離れた実体のない投機的なマネーゲームが世界中を席巻することになる。

分断されてしまった自然と人間のつながり

自然界においてはすべてのものはつながっている。動物、植物、鉱物、太陽、水、空気などすべてのものは独立しては存在しえず、お互いに関連しあい、全体性の中で一体となって機能し、絶えず変化しながら循環しつづけている。しかし人間は自然の循環の宇宙とは別の、科学技術文明という閉じた宇宙をつくりあげてしまったようだ。そして人間の生存、生活に必要なもの、資源、水、電気、ガス、エネルギーはパイプや電線などでわれわれ日常生活に接続され、我々はあたかも自然界から隔絶された隔離病棟の中で、生命維持装置につながれながら生きているかのようだ。そして世界はこの生命維持装置を稼動させるためにひたすら自己目的的に稼動し続け、その中で人間は人為的に作られた欲望のスパイラルの中で生産、労働、消費の際限のない幻想を見続ける。
しかし、そもそもこの経済社会において「経済効果」を生み出すためには、まず人間を自然界から完全に切り離すことが必要だったのだ。そしてあらゆる資源と商品、エネルギーの供給源と供給ルートを掌握して独占的に生活圏へと送り込み、人間をこのエネルギーと商品経済の構造に完璧に依存させる。そして我々は水道、ガス、電気なしでは生活できず、石油エネルギーなしではどこにも行けず、お金と商品がなければ何もできず何も食べることができない状態におかれ、そうすることによって初めて膨大な「経済効果」をあげることができる。我々は文字どおり社会インフラのライフライン(生命線)につながれながら、それが絶たれれば明日にでも死に絶えてしまうような社会の構造の中に幽閉されている。
そして生命維持装置の安全とライフラインの供給ルートの確保の為に武力をまとい、かくして巨大な「武装した生命維持装置」が出現する。その武力はその装置の内部の生命と安全を守るために組織されるが、一方その銃口は内部にも向けられ、その武力は隠然としてその体制を維持するために保持される。
人間はまるで地球上の自然環境とはまったく別の擬似生態系をつくりあげてしまったようだ。地球の自然の生態系は太陽のエネルギーと熱によってあらゆるものがゆっくりと生成、分解、再生を繰り返しながら完全な均衡を保ちつつ循環している、いわば太陽エネルギーによる内燃機関に例えることができる。太陽エネルギーは無限で、無償であまねく与えられ、その太陽エネルギーによって支えられて生態系は常に均衡を保ち、安定している。しかし、人はそれとは別の、石油エネルギーをベースとした擬似生態系を造りだしたようだ。石油は有限で、人為的に採掘、輸送され、局所的にしか産出、供給されず、社会はその不安定で不均衡なベースの上に成り立っている。そしてその石油エネルギーによって一方的に自然資源を搾取し、大量の石油加工品を作りだし、再生不可能な大量の廃棄物を一方的し排出し、投棄する。
そして我々がこの、地球環境から物理的にも精神的にも遊離し、独自の生態系に「引きこもって」いるかぎりこの二つの生態系は相容れることはなく、したがって地球環境の改善はけして望めないだろう。しかし本来、人間が自然界との連続性なしに生存することはできない。人間は水一滴たりとも、米粒一つたりともその原子から創造することはできないのだ。いくら自己の擬似生態系に「引きこも」ったところで、完全に地球の生態系から遊離して生存することは不可能なのは明白である。

失われてしまった暮らし、生活の営みを分断する文明社会

近代の科学技術文明によってあらゆるもの分断されてしまった。父親は工場や会社へ、子供は学校へ、母親は家でと、家族は分断されてしまった。車と道路によって地域社会は分断されてしまった。そしてコンクリートの家によって人間と社会は分断されてしまった。そして現代において食料、環境、教育、住宅、宗教、芸能等は独立して別個のものとしてカテゴライズされ、それらを相互につないでいるものは社会システムや経済システムといった間接的かつ機械的なものになっている。
今現在、人は電気、ガス、水道などがすべてが供給された部屋に住み、テレビ、電話やインターネットによって情報の送受信をおこない、オンラインで買い物をしてその商品を宅急便で受け取ることができる。仕事でさえ自宅のパソコンですますことができるようになるかもしれない。誰にも会わなくても、外の世界と離れた「快適」な生活ができるようになった。外出する時でさえ、車という個室空間に閉じこもって移動することができる。安全、便利、プライバシーといった言葉のものとに 完全に個人の空間に「ひきこもる」ことができる環境ができあがったのだ。現在引きこもりが問題になっているが、そもそも引きこもれる環境をつくりだしたのは人間自身なのだ。
そして過去の伝統から人間は分断されてしまった。伝統とは歴史的な時間軸上の縦の人間のつながりと、その土地の自然風土、自然という物理的なつながりによって成立するものだ。しかし文化のグローバリズムによる単一文化化によって地域の伝統文化とアイデンティティーは喪失されてしまった。現在自分さがしをする人が増えているというが、人間のアイデンティティーとは本来、その地域社会や伝統、文化、自然環境、人間的な繋がりや記憶を背景として育まれて来たものではなかったのだろうか。人間のアイデンティティーのベースを奪ってしまった現代社会が、人間の自己の喪失を招いているのだ。
そして普通の暮らしは失われてしまった。現代文明が生み出した便利なもの、効率的なもの、効率を重視する意識によって、日常の行事や、営みは徐々に失われ、何でも簡便にパッケージングされた商品によってとって代わられようとしている。人間同士の交流、地域社会、安全、教育、親子の関係など日常のあらゆることは、本来ごく普通の暮らしの中で自然に成り立っていたのではないだろうか。本来それらのことは何も特別なことではなく、ごく普通の日常の暮らしの中から自然に育まれてきたものではなかったのだろうか。
伝統的な暮らしをしているコミュニティーに目をむけると、何ごとも非効率的に見えるが、近代社会で忘れられてしまった多くのことを思い出させてくれる。近代社会で別個のものとして扱われている様々なことがらが、全体として分ちがたく有機的に関連し、ごく普通の日常の暮らしの中にすべてが包含されていることがわかる。例えば多様な世代の人々が共同体で農耕や狩猟生活をしながら生活することを通して、子供たちは農耕や狩猟、食物の加工、保存などの知恵を自然と獲得していっただろう。また秋になれば皆で収穫し、豊作を祝って祝祭をおこなう。そこには食料、環境、教育、コミュニティー、社会、福祉、伝統、宗教、芸能といった、現代において別個のものとしてカテゴライズされていることがらが、日常生活の中で一体となって存在している。その中では何一つ独立して存在せず、すべては不可分な関係にあったはずだ。単に性急に結果が得られない代わりに多くの副次的な物を作り出したり、その行為のプロセスの中にさまざまな人間の意識の交流、情動が介入する余地が豊富にあったのだ。そしてそれらの人間の生活のいとなみは自然や太陽エネルギーによる循環をベースとして無理なく、持続的に機能してきた。われわれは、失われてしまったそれらの一体性をもう一度回復することはできないのだろうか。

自分たちの暮らしについてもう一度考える

我々はこの巨大で複雑なグローバルな社会に生き、それらに大きく依存して生活している。そして我々がこの社会のシステムに依存すればするほど、この社会は肥大化し混迷を深めてしまう。社会が混迷しているとすれば、それはこの社会に依存している我々自身にも責任があるのだ。しかし我々はこの社会のシステム、インフラに依存せずに生きてゆく術を知らない。我々は自分の食べる物でさえつくることができない。そして誰もこの巨大化した社会の中で細分化された殻に閉じ込められ、全体性を見失い、「奴隷状態」から抜け出せないでいる。
この世界は今、地球規模の環境破壊や地球温暖化、戦争、飢餓などグローバルな問題に直面しているが、そのあまりにも巨大な世界のシステムとマクロな問題の前に、個人はなすすべものなく立ちすくむしかない。そしてそれらのことは我々個人には関係ないし、解決したりコントロールできる問題では到底ないと思っている。しかしそれらの多くの問題は我々の日常の生活と密接に関連しており、けして無関係ではないのだ。例えば我々が日常運転する車からは多量の二酸化炭素が排出され、それが地球温暖化を招いているという。またガソリンや石油を消費することによって、石油の利権に絡む国家間の紛争がおこる。また携帯電話に使われる希少な鉱石の採掘を巡って、アフリカで紛争がおこる。そして普段何気なく使っている紙製品によって、地球上の多くの森林資源は失われようとしている。
このグローバルな世界ではすべてのものがリンクしている。我々のミクロな日常の些細な行為の集積がマクロな問題を引き起こしているのだ。だからミクロな行為や価値観、生活、意識を変えなければ、マクロな問題は解決できない。逆にミクロな行為、価値観、生活、意識を変えれば、マクロな環境も変わるかもしれない。だからまずは自分の意識、生活、暮らしの価値観から見直してみることから始めてもよいのではないだろうか。まずは自分たちでできることはなにかを考えてみたい。

主体的に関わる

我々は我々自身の消費行動によって、自分たちの生活を他者に明け渡しているのではないだろうか?消費によってすべてのことを他人任せにし、そしてそれがお金がすべての世の中を作り出し、ひいてはマクロな富の集中化を招いている。だからまずなんでも消費に依存せず、他者や体制に依存しすぎず、食、住、衣類などのあらゆることに関心を持ちたい。可能であれば農耕によって野菜や穀物を育てたり、収穫した作物を調理したり加工して食べたり、また自分で家づくりに参加するなど、自分たちでできることから始め、体験的を通してそのプロセスを楽しみたい。またできるかぎり複雑さを排除し、可能なかぎりミニマムなシステムによって生活し、自分自身がコントロールできる範囲で物や自然や人とのダイレクトな関係を創りたい。
ものや食、地域社会、教育など日常のあらゆることは本来とてもシンプルなことで、我々が関与することが十分可能であったはずだ。しかし巨大化し複雑になってしまった現代の社会においては、我々の日常の暮らしにさえ自分自身で関与することが困難になっている。だから本来のシンプルさに立ち返り、日常生活の中で少しずつできることを楽しみながら始めたい。それは時に自己責任を伴うかもしれないが、それ以上に心身の充実と安心を得ることができ、そして効率優先と経済至上主義の中で見失ってしまった本当の豊かさをもう一度思い出させてくれるだろう。

暮らしを通して自然と関わる

民俗学者の赤坂憲雄氏はあるマタギのこのような言葉を紹介している。「原生林は役にたたない。人間が少しだけ傷つけ殺した森、そこからいっせいにワラビやゼンマイが出てくる」と。森という言葉が人間の手の入っていない原生林をあらわすのに対し、林という言葉は「はやす」からきていると言われ、人類は太古より原生林を伐採、植林して栗やクルミなどの木の実や果実を栽培し、あるいは開墾して野菜や穀物を栽培してきた。また薪やキノコ、竹の子、染料、衣類や住居の材料など、生活に有用な様々なものをそこから得てきた。普段の生活空間の周辺に里山や畑などの生活と密接な自然環境を作り上げ、そして生活の営みを通してその自然環境を維持、管理してきたのだ。旧石器時代以来人類は自然と共生し、持続的な生活を維持してきた。そこには多くの生きてゆくための、そして自然環境を維持するための知恵が受け継がれてきたはずだ。さもなければ人類は数百万年もの間生きのびることはできなかったにちがいない。自然とは単に「保護」されるものではなく、また鑑賞するためだけでもなく、人間が生活を通して関わることによって維持されてきたのであり、いわば自然と人間は共生関係にあったのだ。
現在、自然保護が叫ばれている一方、我々の生活は自然からますます遊離している。農耕や採集、遊びなどを通して自然と関わり、自然環境を人間の営みと密接に関連する場として持続的に維持してゆくことが必要だろう。また、暮らしの中のさまざまな日常のプリミティブな営みを再発見し、その行為に参加することを通してさまざまなものや自然、人との交流をはかることが、豊かな日常生活を取り戻すことになる。

情報テクノロジーを有効に使う

現在、インターネットなどの情報テクノロジーが発達し、個人が居ながらにして自由に情報の受信、発信ができるようになり、それに伴い個人の能力は飛躍的に拡張されつつある。このような時代にあっては単に懐古的に過去の伝統や自然に回帰するのみではなく、一方で新たな生活様式や価値観を創造するためにインターネットなどの情報テクノロジーを使うことも有効であるだろう。
グーテンベルグの活版印刷術の発明が宗教改革とルネサンスを、羅針盤と西洋航海術の発達が大航海時代を可能にしたように、新しいメディアは新しい文明を興隆させる。現代は今まさに情報テクノロジーによってもたらされた新たな文明の黎明期を迎えようとしていると言っても過言ではない。ルネサンスの時代の人々が一点透視図法に象徴されるような新たなパースペクティブを獲得したように、我々も現代の情報テクノロジーによって新たな意識のパースペクティブを獲得しつつあるのだ。バックミンスター・フラーは「人類に迷信や劣等感がつくられたのは、すべて、底知れぬ無学と無知という条件下、奴隷のように生き残らざるを得なかった昨日までの歴史のためで」あると言った。我々がいつまでも無学で無知な「奴隷」状態に甘んじていなければならない時代は終わりつつあるのだ。
人間が情報テクノロジーを能動的に主体的に活用するのであれば、それは我々の能力を向上させる非常に強力なツールとなりうる。しかし人間がひとたび情報テクノロジーに対して受動的な立場をとったとき、それは即座に人間や社会に混沌と混迷をもたらすものとなるだろう。そもそも情報テクノロジーは人間の意識と能力の増幅装置すぎない。そしてそれが本来自由意志の持ち主である人間によって使用されるものであるかぎり、情報テクノロジーを用いた自由意志の正しい使用は善の側面を加速させ自由意志の誤用は悪の側面を増幅させる。この社会において受動的な態度で臨むならば、この社会における価値の多様化は複雑で混沌とした、そして悪意に満ちたものとして捉えられるかもしれない。しかし一方、より主体的な態度で望むならば現代の社会は以前の時代と比べても格段に多くの情報と機会を提供する自由と可能性に満ちたものとして捉えることができるだろ。物事は常に両義性を持ち、情報テクノロジーとこの社会をどう捉えるかは最終的に人間個人の意識のありかたの反映なのだ。情報テクノロジー自体は単なるツールにすぎない。それをどう使い、どのように関わるかは我々自身の選択にかかっている。
現在大いに発達しているパーソナルコンピュータやインターネットの基礎は、1960?70年代のアメリカのヒッピー世代の開発者たちの手によって、誰もが手軽に主体的に情報を発信、受信、検索、共有をおこなうことができるパーソナルなツールとして開発されてきた。そしてそのスピリットは今もwebやblogやgoogleなどに引き継がれている。
インターネットなどの情報テクノロジーが発達するにつれて、我々の生活や価値観、意識、社会は徐々に変わりつつある。まず従来の時間、空間、大きい、小さい、多い、少ない、遠い、近いといった古典的な物理的、数量的価値観は大きく転換を迫られている。また地理的な局所性はネガティブな要因ではなくなり、むしろ豊かな自然環境や固有の文化、地域社会と共生した豊かな暮らしをもたらすものとして再評価されるであろう。またwebやblogなどの画面上ではあらゆるものが等価に表示されるので、従来の地位や権威、既得権、組織といった社会的枠組みより、個人の創造力、情報発信力や主体性、意識がより重要になってくるだろう。またありとあらゆる情報や意見、価値観がネット上に存在するようになるにつれて、いままでマスメディアによって画一化されていた人間の価値観はより多様化され、我々の意識はより個性化されるだろう。そして世界中の情報が検索エンジンによって網羅され組織化されるにつれて、いわゆるロングテイル現象によって今まで埋もれていた情報が再び日の目をみるようになり、小さなビジネスや個人的な情報もその存在価値を認められるようになるだろう。それにともなって地域社会の特異性や伝統文化の多様性にも焦点があたり、中央集権的で一元的な社会から分散型で多元的な社会へと徐々に移行してゆく可能性がある。またblogやSNSによって情報の収集と発信は格段にしやすくなり、バーチャルな次元で意識は共有され、コミュニティーが形成されつつある。またオープンやフリー、クラウドといった新しい概念によって、人間の知識やイメージは共有され、新たな集合知が生まれつつある。

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